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倉敷ホーリネスチャーチメンバー、h,k 兄の証です

(ヨハネ15章9節〜17節)
今から12年前、病のため倉敷に帰郷し2ヶ月間の入院生活後、自宅にて療養中の私は、就職先を探さなければならないのに、病気は治らず絶望の日々を送っていました。その日も布団の中で神様に助けを求めつつ聖書を読んでいると、(ミカ書6章8節)御言葉が私に示されました。『人よ、何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義をを行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。』「そうだ、ただ神様と歩めば良いのだ。」心に平安が溢れました。しかし、その時以来のキリスト者としての私の歩みは大変情けないものでした。日曜が休みという条件を確認して就職した現在の会社でしたが、入社早々に年中無休の店舗に配属命令を受けました。辞める事になるとも断るべきせした。心にこの御言葉が響きました。しかし病気に関して主治医に直接問い合わせを受ける等採用がなかなか決まらなかった事を思い、他の会社を見つける自信もなく受諾しました。それでも最初の数年は不定期でも近くの教会の礼拝に出席していましたが、だんだん聖書を読まなくなり、そして祈る事まで嫌になり、完全に神様から離れてしまいました。「日 曜日は働いて、平日に休んだほうがどこに行くのもすいていて楽で良い。」とまで思うようになりました。日曜が休日の現在の店舗に転属した後も、様々な理由をつけ礼拝を守らずにいた私に『滅びの子よ』との声が響き教会に戻りました。しかし礼拝を守るようになったとはいえ、私の内面は悲惨でした。聖書を読みはしましたが、ただ読むだけで、私への神様からの語りかけとして受け取ることはありませんでしたし、もちろん御言葉の通りに生きる事など考えもしませんでした。また、祈りも言葉を飾るだけで、私の心は神様を向いてはいませんでした。教会ではクリスチャンという仮面を付け、一歩外に出れば全くこの世の人、ローマ人への手紙1章29節〜31節そのままの私でした。愛する兄・姉を欺いてきました事、どうぞ許して下さい。そして2年前です。とうとう私はこの偽りの生活に行き詰まりました。イエスキリストにあって歩む事を心から求めました。イエス様の事をもっともっと知りたく思い、福音書を読み続けました。そしてもう一度気付かされました。愛する一人子のイエス様を、この世の汚れた罪人を救うためにこの世に送って下さった神様の愛と、子なる神様であられるのに、 私たち罪人を愛するが故に、父なる神様の元より、この汚れた世に人として来て下さったにもかかわらず、その愛する人間たちから辱めを受け、その当時から現在そして未来に至る迄の全ての人間の罪の身代わりとなる為に、十字架による死刑にまで臨んで下さったイエス様の愛を、「あなたのような愛を持つ者にして下さい」と祈る私に神様は次のことを示して下さいました。『お前は愛を求めていてはいるが、それはあくまで自分の為のみに求めている。自分が苦しいので、自分の心を満たしたいが為だけに求めている。しかし、お前は隣人を愛しているか。何より私を愛しているか。』ハッとしました。私の全ての罪を背負い十字架にかかり、身代わりに死んで下さった神様。又その事を知っていながら裏切り踏みにじったこんな者をも愛し続けて下さる神様。感謝はしていました。しかし、決して神様を愛してはいなかったのです。よし愛すればいいのだ。隣人のため祈ろう。神様の為ならなんでもやろう・・・長続きするはずはありません。私には『人がその友のために命を捨てる』などという愛はなかったからです。本当にキリスト者なのか、本当に救われた者なのか、と救いの経験まで疑いつつあっ た私にはあの御言葉が再度与えられました。『人よ、何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか』そうだ、神様は私を愛して下さっている。見守って下さっている。導いて下さっている。神様はわたしと共に歩んで下さっている。神様に我が友と呼ばれたあのアブラハムのように、ガンバリが取れ、自然体になった私の心に、平安と神様への愛が溢れました。
今、私は残りの生涯全て、未来への夢も希望も神様の御旨にお任せする事ができるようにされました。自分の考えがなるのではなく、神様の栄光のみが現れることを望む者にされました。慈愛に富む神様に心より感謝します。私は本当に弱い人間です。これからも多くの失敗をすると思います。しかし、神様の力は、その弱いことろに完全に現れます。これが神様の御約束です。ひとあし、ひとあし、主にすがって生きて行く事を願っています。
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